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岩井理花の語るワーグナーとそのエロチシズム

 日本におけるワーグナー・オペラの第一人者として、新国立歌劇場や二期会の本公演でワーグナーのヒロインを数多く歌ってきた岩井理花氏。今回のコンサートでは『ローエングリン』より「エルザの夢」を歌われる岩井氏にワーグナーやそのヒロインについて話を聞いた。

 

Q:ワーグナーの音楽やオペラについて、演奏している立場から感じることをぜひ教えてください。

 

 私はワーグナーの音楽は上質なエロティシズムだと思っています。例えば、わかりやすい音楽上の表現で言うなら、音の波が何度も何度も押し寄せてくるようなところなどが象徴的でしょうか。ただ、エロティシズムといっても崇高でしかも情熱的だと思うのです。

 

~神の世界の崇高で情熱的なエロチシズム~

 

 たぶんそれには、ワーグナーが取り上げるオペラの題材もあるのではないでしょうか?もちろん『ニュルンベルグのマイスタージンガー』のような日常を描くものもあります。しかし、ワーグナーのオペラの多くは神話的なものを題材としています。宗教的世界、神話の世界、妖術や魔法と言った、人間の世界を離れた世界が出てくる。描かれる男女の愛も神様の愛や人間界と天上界といったものが多く、そのうえ許されない愛、実は禁断の愛も描いている。そういう魅力にもエロチシズムの要素があると思うのです。

 

  例えば『ニーベルンゲの指輪』の第二作『ワルキューレ』から登場するブリュンヒルデ。彼女は最初は半神です。しかし後に人となって、自分が名付けた、しかも人間であるジークフリートを愛します。このジークフリートは、ブリュンヒルデにとっては実は甥ですね。同じ神を父親に持つ異母兄妹でありながらも、人間とされていた、その兄妹が愛し合って生まれた息子を情熱的に愛するわけです。兄弟の愛、叔母と甥の愛、なのですが、それが神様の世界の話となることで宿命の愛、究極の愛に昇華され、崇高なエロティシズムが生まれていると思います。

 

~ワーグナーではヒロインの命をかけた愛が救済を生む~

 

 『ローエングリン』もそうです。エルザは人間で、ローエングリンという天上界の人とは本当は結ばれてはならない。これは禁断の恋なのです。でもローエングリンが人間界に降りてくるわけです。

 

 ワーグナーのオペラはとても女性が女性らしいオペラを描くと思います。ロマン派の究極のテーマである愛と死を体現している。ブリュンヒルデもエルザも愛する人を失って死ぬ。イゾルデも、エリザベートもそうですね。そして女性の命をかけた愛が最終的に救済を生み出すわけです。

 

 ふと、ワーグナーはそいういう女性を心から欲していたのかな?と思うときがあります。どの女性も全く違うキャラクタ―なのですが、なにか同じものを感じるところがあるのです。私はそれを日本的というか、そのように感じることもあるのですが、世俗的ではなくてピュアで純粋なものを感じるのです。

 

 

Q:さて、岩井さんは今回「エルザの夢」を歌われるわけですが、この曲の魅力は何でしょう?

 ワーグナーの魅力の一つに素晴らしいオーケストラ曲があることは疑う余地のないところかと思います。この「エルザの夢」もお客様はその前の前奏曲で神々しい世界が提示され、媚薬を投じられたかのようになっているわけです。その天上の世界に対して、現実世界にいるエルザが夢を語ることで、その神々しい世界は聴衆が現実の世界から見たら夢世界なのだ、とおいてあげ、共有ができるようになる。そういう役割を果たす曲だと思います。

 

~オーケストラ曲も魅力的なワーグナー~

 

 そもそもエルザは非常に女性的な人ですが、それと同時に子供っぽい純粋さがある。どこか現実感がないのです。このシーンでは彼女は弟殺しの罪を着せられています。でも、そのことを追求されてもただ「かわいそうな弟」とつぶやくだけ。どこか自分のことのようには感じていなくて、夢の世界にいるわけです。あまりにもひどいことを言われてトランス状態になっているともいえるかもしれませんが。

 それを見た周りの人たちが「あれ、これは変だぞ」と気がついてくれることで王様が全てを私に打ち明けろ、という流れになる。

 

 窮地に立たされたエルザは、もう、祈るしかないのです。そして祈る相手はすでに愛し合っているローエングリンになります。夢の中で会って、すでにそこで愛し合っている。宗教的なものと聖なるもの、エロチシズム的なもの、憎しみを受けること、こういったこと全てが混ざり合ったところに生まれるのが「エルザの夢」であり、そのエロチシズムだと思います。

 

~エルザの見せるあこがれと夢のエロチシズム~ 

 

 「エルザの夢」の聞きどころの一つは間奏のオーケストラだと思います。その音楽が一気にエルザを夢の高みに持っていってくれますね。オーケストラが夢の中で彼女が見た、しかも愛し合ったローエングリンの神々しい姿を表現してくれるからです。昔バイエルン祝祭歌劇場のコレぺティトゥーアのリヒャルト・トリンボーン氏から『ローエングリン』について学んだとき、彼は「あこがれのエロチシズム」という言葉を使ったのです。なるほどと思いましたが、私はそこに「夢」という要素も付け加えたいですね。エルザが夢で逢ったローエングリンの姿を語り出すとき、オーケストラのトレモロで表現される、その「夢」や「あこがれ」のエロチシズムをぜひ聞いていただきたいですね。

 

Q:ワーグナーのヒロインの中で好きな女性は誰ですか? 

 そうですね。やはりブリュンヒルデが好きです。『ワルキューレ』のジークリンデも好きです。でもどのヒロインにも共通性があって好きなんです。やはり、ワーグナーは作曲だけではなく、台本も自分で書いているので、セリフと音楽とオーケストラが合体している。その説得力が凄いのですよ。だから、どのキャラクターも素敵だと思うんだと思います。

 

 Q:今後どんな歌を歌っていきたいと思っていらっしゃいますか?

 実は、私は大学の卒業試験で、ヴェーゼンドンク歌曲集とこの「エルザの夢」を歌ったんです。これが私が最初に歌ったワーグナーのアリア。最初に歌った曲ですから、この曲にはとても思い入れがあるのです。『ローエングリン』のように人間がもっと神様と近かった時代の純粋さを、音楽を通して取り戻せるような歌が歌えたら、とても素敵だと思います。

 

 

 大歌手にこのような表現は不適切かもしれないが、可憐ということばがぴったりの岩井氏。しかし、氏の音楽に対する真摯な思いとその深い考えにはいつもハッとさせられる。今回もどんな素敵なエルザを表現してくれるか、今から楽しみだ。